「個人の時代」の指標と属人性の価値

Pocket


最近様々な本を読んでいて、あまりアウトプットできていないのですが、時代背景的に「個人の時代」が来ると言われていて、企業から個人へのパワーシフトが起きると言われていますね。

インフルエンサー、インスタグラマー、ユーチューバーなどというのはそれが顕在化した例で、そこにVALUやタイムバンクのような個人にダイレクトに価値が付くものも出てきた。

この記事を書くにあたり、ここ10年くらい考えていたことを時系列に適当に書いていたら、収拾がつかなくなったのでゼロから書き起こしているのですが、昨今言われる「個人」というのは噛み砕くと「オリジナリティの高い個人」のことであり、「名無しの個人」ではありません。

AIやロボットが台頭してきた結果として、「AIやロボットのような名無しで代替可能な個人」の価値が損なわれていき、「優秀さ」ですらコモディティとして捉えられ始めるようになってきたと感じます。

スクリーンショット 2018-01-08 21.32.57

よって、「代替可能な」個人の時代ではなく、「代替不可能な」個人の時代に入ってきており、個性を伸ばすのではなく、平凡な栽培マンになるよう教育されてきた人々にとっては、危機的状況が訪れていくと言えます。

私自身は法人としては6年目、フリーランス時代も含めるともう7年近く、労働社会の中で個人として生きています。そこで実際に感じていることを、少し整理しておきたいと思います。

企業中心社会の成果指標≠個人中心社会の成果指標

企業中心社会と個人中心社会という分け方をすると、指標が全然変わると感じています。

企業の成果指標はわかりやすく言うと「増収増益」ではないでしょうか。無意識的に成長が絶対という風潮があり、増収増益によって株価が伸びて株主が潤い、従業員の給与が支払われるないしは昇給を可能にする。

言い方はあれですが、企業としてもそこに所属する個人としても、JPYのマイニングが唯一絶対の指標となっているように感じます。

個人中心社会ではどうでしょうか。私が12月決算なので、5期目を終えたばかりですが、減収減益の経験は1度だけで、後は全て増収増益ですが、増収増益に関してはかなりどうでもいいなという見解を持っています。

唯一、減収減益の時に、感情的に「うーん、嫌だなあ」と思っただけで、物理的に困ったわけではありません。ちなみに5期全て黒字です。

一定以上の稼ぎになってくると、支払う税金は多いし、どう運用すればいいのかなど、稼いだがゆえの悩みが出てきます。

企業中心社会に所属する個人は、基本的には年収up≒幸福?の等式で頑張っているように思えますが、一定額からは年収up≒幸福の等式は成り立たなくなってくることを体感する段階に至っていないのだと思います。一般論的に、年収1,000万円くらいまではこの等式は成り立ちます。

平たくいうと企業中心社会で雇用される個人の指標は、増収増益をベースとした年収upでまだ成り立つ場合が多いでしょうが、個人中心社会では金銭的報酬がワークしなくなっていくと感じています。

企業に属する個人は、やりたくないことでも給料のためにライスワークとして取り組みますが、ただの個人はお金がもらえてもやりたくないことはやりません。

個人中心社会においては、お金よりも「いいね!数」や「フォロワー数」の方が報酬としてワークする場合もあるでしょう。「10万円と1万いいね、どちらが欲しいか?」というお題で悩むどころか、10万円で1万いいね!を買う人がいたりもします。

私自身もまだ企業中心社会の中心指標である「増収増益」から完全に解放されているわけではありません。しかし、実体験として増収増益でも幸福度は上がらないし、何のために稼ぐんだっけ?という疑問をもやもやと抱いています。

これが企業中心社会であれば、疑問を抱くことすら許されず、数字でのみ評価される仕事に傾倒してしまいがちになるでしょう。

個人中心社会の場合、成果指標もおそらく多様なのでしょうが、企業中心社会で重視される「増収増益」が個人には指標としてあまり当てはまらない。一定以上の稼ぎの個人にとっては、増中増益は指標としてワークしないのは明確だと感じています。

仕組みよりも属人性の価値が相対的に上がっていく?

企業 vs 個人の特性の違いとしては、仕組み vs 属人性が一つあります。

企業が企業としてワークするのは、誰でも回せるような秀逸な仕組みを作ること。その仕組みを作った対価として、創業者は巨万の富を得ることがある。

一方で属人的なものは、その人がいなくなったらワークしない。代替可能性が低く、スケーラブルではない場合が多い。ゆえに、属人的なサービスなどはVCから「スケーラブルではない」とされ、評価されにくかったりする。

秀逸な仕組みを作ることはたしかに一定以上の難易度があり、アイディアとして発想することと、実際に作り上げるオペレーションに苦労が伴う。

「秀逸な仕組み」の事例として、昨今はSaaS型のスタートアップを多く目にする。その多くは属人性とは対局的なもので、そのうちロボットやAIでもできるようになったり、SaaSのプロダクト設計に初期からロボットやAIが組み込まれていることもある。

その多くの場合、コストダウンを可能とするサービスとして、一定のユーザー数を得て、一定の儲けを出すのであろうが、率直に言って、あまりワクワクしない。

個人の時代においては、「洗練された仕組み」よりも「属人的でヒューマニックなモノ」が好まれていくようになる気がしている。

これは体温の差というか、洗練された仕組み=ロボットやAIによる領域が増えることで、人間が人間っぽさに触れる機会が減っていくため、相対的に「人間らしいもの」の希少価値が上がっていくのではないかと思う。

たしかに無人コンビニは便利だが、家から同じ距離に無人コンビニと美人店員コンビニがあれば、後者を好む人は結構いるのではないか。私はそうだ。昨今のコンビニ店員は外国人が多いが、むしろ売上アップのためにやや高めの時給でも美人店員を起用してみてもいいと思う。

少し話が脱線した気もするが、個人の時代においては、ロボットやAI化が進む一方で、だからこそ属人的なモノの価値が上がり、属人性を活かした仕組みを作れれば、思わぬ利益を得られる機会はあると感じる。

個人の時代×属人性=アート市場に注目

こうした時代背景を元に、私は今後アート市場が熱くなると考えている。

本稿では個人の時代に焦点を当てたのであまり触れなかったが、企業に属する個人と個人の名前で生きれる個人とで、今後貧富の差が拡大する。

その対比との関係性は低いが、暗号通貨に対する態度によっても貧富の差が拡大する。

一部の富裕層による金余りが加速することは間違いないだろう。

属人的かつ、相場が不明瞭であるという点から、アートの価値が上がっていくと考える。

アートは証券のような数字で評価されるものではなく、完全に定性的に評価するしかない代物である。

しかし、オリジナリティが強ければブランドとして価値が生まれ、結果として価値が高騰し、良い条件で換金もできてくる。

より抽象化して考えると、アートに限らず、個人の時代=ブランドの時代とも言えるのかもしれない。ブランドが会社のような組織に紐づくのではなく、個人に紐づくという考えだ。

アート市場でいうと、クラウドファンディングではなく、エンジェル投資家とアーティストのマッチングプラットフォームと、出資額を回収するスキームが上手く作れれば、面白いと感じている。

私も脳内で考えただけだが、初期数百万円アーティストに出資する代わりに、将来的にアーティストがアートを売買した際の5%を配当として受け取るとか、そういうスキーム。

素質あるアーティストであれば、こういったエンジェル投資家からの資金調達も容易であり、「好き」をとことん追求した方が、企業に属する個人である栽培マンより、金銭的リターンも見込める時代になっていくと思う。

以上です。顕在化しているものではなく、次はどうなるかという流れに想いを馳せて生きていきたいものです。



Pocket

コメントを投稿する

「「個人の時代」の指標と属人性の価値」に対してのコメントをどうぞ!