「年収を上げたい」という愚かな発想

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最近、「なんのために仕事をするのか」ということをたまに考えています。

綺麗事ではなく、世の中や社会の役に立ちたいと思う気持ちが強くなってきた気がします。

正直に言うと、若い頃、特に独立したての頃などは、稼ぎたい!とか思っていました。

そしてその際は、今ほど「社会の役に立ちたい」という思いは強くはなく、とても希薄だったと思います。本来的に、自分が良ければ良いと思っている人間なので。

時に栽培マンと話していると、年収を上げることに意欲を持つ人を見かけます。

私も若い頃そういう時代がありましたので、棚に上げて言えた義理ではないのですが、「年収を上げたい」という発想では、年収は上がらないと思います。

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最近思うのは、社会に価値を提供した結果としての、売上であり利益であり、その差分である給与、年収であるということです。

なので、大した社会に価値を提供していない栽培マンが「年収をあげたい」というのはお門違いも甚だしく、まずは自分の持ち場で成績をあげろよという話です。

もう一つの観点では、これからの時代において「年収」という発想が古いのではないかと。

私のような自営業者にとって、年収とは正直に話すと「調整するもの」です。私のようなぼっち会社ですと、税額から逆算した上で年収設定をして、どれくらいの利益を会社にプールしたいかを考えます。

そして「年収」とは1人が1社から売上を受け取る概念であり、もうこの発想が時代遅れになっていくのだと思います。1億総フリーランス社会はすぐそこであり、社会人であれば1度はフリーランス的な概念や発想を学んでおいて損はないと思います。

メインのクライアントA社から年間売上1,000万円を受け取り、たまに仕事が発生するクライアントB社から年間200万の売上を受け取り、自分でクッキーのECを開いて年間100万の売上を稼ぐ。年商1,300万円となり、その分のいくらを自分の給与として受け取り、いくらを営業や広告宣伝費に使い、いくらを会社にプールするか。

こういう考えを持つと、年収=給与を上げるには、「クライアント社数」を増やす×「クライアント単価」を上げるというシンプルな方程式が見つかり、各変数で努力できることが具体化します。

これが1社に勤める栽培マンだと、年収を上げる=その企業の給与テーブルや年功序列に沿った上げ幅に従わざるを得ない、業界水準から逸脱することはできない、などとなりがちで、個人の力で打てる施策が全然ないんですよね。唯一の解としては、自分が納得する上げ幅を認めさせるほどの実績を出すことです。

たまに漠然と「年収上げたい」と言っている栽培マンを見かけると、構造的に無理ゲーであることには気づいているはずなのに、独立する勇気がないんだろうなと感じます。本当に栽培マンの愚痴ほど、聞きたくないものはありません。ジャイアンの歌の方が、マシではないでしょうか。

年収とは、①社会への提供価値の結果として得られる対価であり、②そもそも今後は1社から給与を受け取る「年収」という発想自体が古いものになる。と私は考えます。

自分の労働力を1社にしかつぎ込まないのは、社会的に見た時に大きな損失だと思います。

あと実体験としては、年商◯◯◯◯万円を越えたあたりから、結構どうでもよくなってきました。一定のラインさえ確保できていれば、あとはゲームのようなものです。新記録達成したいから、ちょっと頑張ってみるとか、そういう感じですね。

売上を上げることよりも、まずはどういった価値を相手に提供できるのか。価値提供というその一点を、考え続けています。



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