最近、総合商社勤務の方にお会いしまして。1時間ほどお話ししただけですが、それだけで明らかに優秀そうだということは伝わってきたのですが、非常に残念な点が一つだけありましたので、記事ネタにしたいと思います。
商社の3年目なんてまだまだ下っ端で雑用。せめて丸3年は所属しないと「商社にいた」とは言えないと思うんです。
このコメントに対して、多くの方、特に40代以降の大人は違和感を覚えないでしょう。しかし、僕にとっては強烈な違和感。しかも、「優秀そうな人」がそう思っているというのがとても残念。
たしかに、石の上にも三年ということわざが示す通り、三年くらい物事に打ち込まなければ、その道の技能を習得できないという考え方は一理あると思います。
しかし僕が思うにそれは専門職の話で。商社で3年雑用をやっていたからといって、何かスキルが身につくのでしょうか?商社的な空気を読む力とか、接待力でしょうか。そんなものを身に付けるために3年も使うのですか。
石の上に三年とかいう固定観念は、会社が人材を縛り付けるために布教させた、経営者側に都合の良い話であり、労働者側にとっては石の上に三年とかでずっと雑務やらされているのは、時間の無駄というか、エンプロイアビリティを低下させているだけだと思う。機会ロスハンパないですよ。
— Yuhei Umeki (@umekida) 2016年3月15日
偉そうな人が言うことを真に受けると「やはり、石の上にも三年でですね」とか若い子も言い出すのだけれど、それは自分で考えてないから。どう考えても、三年の雑務の間に、もっとスキルは高められる。それに気付けない人は、アホだよ。どれだけ優秀とか言われていたとしても、それは優秀な栽培マン。
— Yuhei Umeki (@umekida) 2016年3月15日
「石の上にも三年」を信じ込ませているのは、経営サイドの人間だと思います。若者が勝手に「石の上にも三年だ(しかも雑務でな)」と思い込むでしょうか。
いいですか、本田圭佑も最初は球拾いから始めて「石の上にも三年」とか思っていたのでしょうか。違うんじゃないですか。ちょっと喩えが下手かもしれませんが、1年生の間だけでも球拾いオンリーだったら才能が腐りますよ。それと同じことを平気で日本の大企業の若手会社員はやっています。
石の上にも三年。それは、上層部が若者を使い倒すのにはとても便利な言葉です。僕かて困った時は下に対して「石の上にも三年だからな」とかいって単純作業やらせることがあると思いますよ。しかし、それは相手のことを考えて行っているわけではなく、働かせるための納得感が高い免罪符的文言としての「石の上にも三年」です。
実際に僕は社会人3年目の冬に独立していて、その間4社に勤務しました。ジョブホッパーすぎだろとか、サラリーマン偏差値低すぎだろという事実はある一方で、1社目に3年もいたらいきなり独立するという発想に至らなかったと思う。様々なことに2年9ヶ月くらいトライした結果、独立するという思考に至りました。独立からもう4年半くらいか。
同じことを3年やるのか。様々なことを失敗も重ねながら七転八起で3年を過ごすのか。その結果は雲泥の差ではないでしょうか。
「石の上にも三年」は、新しいことに挑戦しない、もっともらしいただの言い訳ではないでしょうか。
本当にその道を極めたい人の「石の上にも三年」ならいいんですよ。サッカー選手とはそうです。しかしながら、総合職の、ゼネラリストの「石の上にも三年」は謎すぎます。「石に潰された三年」の間違いではないですか。「Mr.商社マン」になりたければ、それでもいいです。
そういえば学生の頃、「つぶしが効くから」戦略コンサルや総合商社という志望動機の人が多かった気がします。僕は少なくともサラリーマンとしては優秀ではなくて偏差値が低かったので、戦略コンサルには面接で落ちるわけですが(商社は受けてない)。そういうやつらって、今はどうしているのだろう?と思います。優秀なゼネラリストになっているのかな。
「石の上にも三年」という古来からあることわざ。これは万人に当てはまる真理ではなく、その言葉を使用する立場によって、捉え方が変わるはずだということを、案外みなさん認識していないのでは。
一つの言葉でも盲目的に信じるのではなく、多角的な視点で考えること。それは、多様な立場を経験したことがある人じゃないと、気づかないことなのかもしれません。なので、人をマネジメントする側の経験に乏しい若手が「石の上にも三年」を盲目的に信じるのは、無理もないのかもしれません。
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