「薄っぺらい」という批判に見え隠れする薄っぺらさ

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ユーザー心理分析です。

「薄っぺらい」という批判?とかをtwitterやNewsPicksで見かけるので、薄っぺらいと批判したい人の心理が気になったので考えてみました。

前提として私は他人に興味がないので、他人に対してあまり薄っぺらいと思わないですし、なんらかの感想を持つことが少ないです。直接的な知人や身近な人にはもちろん興味ありますし、感想を持つこともあります。

全く関係ない相手とか記事?に対して「薄っぺらい」と反射的に反応してしまう人はどんな心理なのでしょうか。一応なのですが、私が「薄っぺらい」と発言したツイートを検索してみました。1年以上は「薄っぺらい」とツイートしていないようです。

スクリーンショット 2015-12-17 14.21.011つはTechCrunchへの批判であり、これは同業者として俺ならこんな薄っぺらい記事書かねえよ!ということですね。大人げないマウンティングですね。

薄っぺらい友達とは言い換えると「なんで会ったこともない奴がフレンド申請してくんだよ。しかも多いんだよ!」という愚痴だと思います。考えてみると薄っぺらいもクソもなくて、twitterのフォロワーじゃないんだから、なんでフレンド申請してくるんだよ。という感じです。

とはいえ、1度会っただけでかつ今後も関係性がなさそう人がFBフレンドにいることの居心地の悪さも感じてしまいます。やや潔癖性なんでしょうね、私は。

上記のように自分自身を振り返った上で、世間の「薄っぺらい」批判を考察してみましょう。

・対象を否定して自分が上であるとマウンティングしたい
・その前提には承認欲求が満たされていないことが挙げられる
・承認欲求が満たされていない人は他人を攻撃して優位に立ちたがる
・人格者は人や記事を「薄っぺらい」と批判しない気がする

「薄っぺらい」と批判した人に「じゃあお前の人生は濃いのか!?」と問いただすと、反論できないのではないか。

私も記事を批判することがあります。今日はゆかしメディアのここ2年の売却してお金持ちになった人ランキングのランキングが適当すぎた件(村田マリさんがiemoを50億円で売却したことになっていました。MERYとの合算額でカウントしてしまったのでしょう)についてです。うっかりツイートしかけましたが、そんなツイートをしても意味がないなと思い、やめました。

薄っぺらい

人格者や立場がある方ほど、批判の流儀というか、洗練された批判の仕方をされていると思います。批判自体は悪いことではなく、建設的であれば論点がより掘り下げられたりと、いいこともあるかと思います。

しかし、世間で繰り広げられる批判は、98%が栽培マンの戯言にすぎません。有名人やよく読まれる記事は、栽培マンにとってはサンドバック的な機能があり、栽培マンがクリックの奴隷になることで広告費を稼げているというのがWebメディアの実情です。

twitterやNewsPicksをうろうろした印象としては、建設的な批判をしている人はほとんどいなくて、「薄っぺらい」という薄っぺらい批判が98%です。「薄っぺらい」という批判を繰り返す人自体の薄っぺらさを感じます。

私が薄っぺらいと批判する立場であれば、なぜ薄っぺらいと感じたのかを徹底的に掘り下げます。ロジカルにね。ただし、直感的に薄っぺらいと感じる感覚も大事なことで、感覚を言語化する訓練をすると、対人コミュニケーションや交渉、コンテンツ制作など、様々な場面で役立ちます。

「薄っぺらいと」という批判を繰り返す人は栽培マンから抜け出せません。いつもの栽培マン論に帰結してしまいましたが、批判される立場である方が色々と面白いと思いますよ。様々なフィードバックから学べることが多いですからね。

「薄っぺらい」という薄っぺらい批判はやめて、「なぜ薄っぺらいと思ったか」を徹底的に考えた上で批判することが、栽培マンから抜け出すための一助となるかもしれません。本誌の読者にも栽培マンは少なくないと思いますが、せめてもの本誌の読者には栽培マンから抜け出していっていただきたいものです。

2015年代に「薄っぺらい」とツイートすることは、1990年代における「おいジャイアンツ、今日も負けてんじゃねえよ」と親父が愚痴るというようなものなんでしょうね。翌日には忘れていることです。しかし、それがダサいんです。



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