最近、いろいろと荒れていまして、針治療が必要なくらい肩こりがひどいです。そこで久々にランニングしたのですが、僕は本田圭佑が好きなのでミランのユニフォームを持っていて、それがランニング着なんですね。これを着て走ると、ニュースで追っている本田圭佑の状態から、今どんな心理なんだろうか。と想像して走ることができます。
僕自身はよく考えてみると、なんとなく人生1/4くらいは不調を感じてよくスランプに陥るのですが、このスランプの脱し方がよくわからず、いつも苦労します。スランプ時はとにかく無気力なんですよね。独立後は不思議と仕事には支障をきたさなくなりましたが、仕事以外の時間の無気力っぷりはやばいですね。
そこでミランのユニフォームを着て走ることで、本田圭佑は試合に出られない時は何を考えているんだろうか?とかニュースで見る限りは淡々と練習してる裸子けど、仕事で不調でも目の前のことをコツコツやるしかないのかなとか、本田圭佑を想像することで自分も頑張ろうかなという気になってきたりします。
これはあくまで一つの例であり、「誰かになり切ること」はクリエイティブの幅を広げる上ではすごく重要なことだと思います。
言い換えると編集の講座では「編集者はその対象物になり切って考えろ(例:ブルータスの企画を提出しろという課題が出た時には、ブルータス編集長になり切って何が必要か考えろ)」という話であるし、たとえば村上春樹を写経してみると「なぜこのタイミングで、“やれやれ”が出てくるのか?」などを深く考えるようになります。
こういった「誰かになり切る」という発想は案外一般的ではないのかもしれないと思い、問題提起までに。
僕は書く仕事をしているので、書くという観点においては「好きな作家を写経してみる」というのは比較的みんなやったことがありそうなことだと思うんですが、どうでしょう。
なり切る対象となる人物は、明確なスタイルが出来上がっている人が多く、そこから学べることはすごく多い。自分も早く「なり切られる対象側」へいけるようになりたいと思います。