話題になっているドワンゴ川上さんのコンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたことという本。読んでみたのですが、前半部が難しくて挫折しかけましたが、後半にいくにつれて「!!」が脳内で連発。コンテンツ関連の仕事に携わる人は読んだ方良いですよ。
川上さんが(上場企業の社長にも関わらず)ジブリに二年弟子入りしたという破天荒なエピソードからコンテンツの秘密を紐解かれています。
本書に関してはきっと今後も様々な書評が出てくるでしょうが、イケダハヤトさんの下記の書評記事もお勧め。
◆参考記事:ジブリ作品の魅力はストーリーではない。「千と千尋」とか、確かにストーリーは意味不明:ドワンゴ川上会長の新刊「コンテンツの秘密」が名著すぎる!
「パターン」をどう多角的に捉えるか
コンテンツはワンパターンに収斂しがちである。という話がありました。
これはその通りで、しかも面白いことに「ワンパターン化したコンテンツ」はいくら人気でも、一定回数を過ぎると見事に飽きられます。人気連載も同じフォーマットで繰り返していると「連載6回目」とかになるともう全然ダメなことも。これは本誌でも僕が他の媒体に寄稿した経験を持ってしても、感じてきたことです。
そこで「パターンを予測させない」とか「パターンに引っ掛かりをつくる」ことが大事だと本書では言及されています。事例としては、崖の上のポニョの絵が少し変というか特徴的というか、あえて狙ってそうしたという話がありました。
脱パターンというか、パターンに+αするか引き算するかで「予測させない。引っ掛かりを作る」というのはクリエイター側からすると非常に高度なことであり、僕らクリエイターはついついパターンにハマってしまうのだと思います。「もう飽きたわ」と言われてしまっては終わりなわけで、パターンというフォーマットは持ちつつも、フォーマットを絶えず変化させなきゃいけない。
なんとなく今までわかっていたことではありますが、本書を読んで「やはりそうなんですね」と腑に落ちました。
村上春樹的「わかりそうでわからないもの」に惹かれる
この「パターン化」のある意味対になる概念として「わかりそうでわからないもの」というのがあります。
「パターン」はコンテンツの受け手がその結末を想像できてしまい、その通りだと「つまらない」となってしまう。しかし、観ても読んでも「?どういうこと?」「なんかわかりそうな気がするけどよくわからない」というものは読めないため魅力的に捉えられることが多いようです。
これに当てはまるものとして僕の頭に浮かんだのは村上春樹でした。梅木的解釈では村上春樹とは「何かありそうで実は何もない」という世界観であり、何かの村上春樹分析記事で読んだのですが「村上春樹小説のあらすじを思い出せる人はほとんどいない」そうなのです。僕も好きなので読みますが、たしかにあらすじを思い出せません。それは自分が馬鹿だからあらすじを覚えていないのかと思いきや、必ずしもそうではなかったのかもしれないと最近わかったのです。
やれやれ。言い換えるとストーリーは「読めないもの」の方が魅力的と思われる可能性が高い。とはいえ、想定通りのストーリーが受け手に期待されている場合ももちろん多数あるけど。
ストーリーより表現がコンテンツの本質か?
本書ではこんな話もありました。「ストーリー」のパターンは少ないので、ストーリーで差別化することは相当難しい。ゆえにコンテンツの最大の差別化は「表現」になるという話。
本書では映画に当てはめて解説していましたが、僕にとってはまた村上春樹に当てはめるとスッキリします。上述の通り、村上春樹小説のストーリーは「読んだ後イマイチ思い出せない」くらいのものです。読み手によっては「なんか主人公が斜に構えつつ、必ずSEXの描写が入る感じですね」という感想を持つんでしょうが、それはストーリーへの感想ではなく表現への感想です。
よく村上春樹小説を読むと「ピナ・コラーダ」が飲みたくなるとか、「スパゲッティを茹でたくなる」症状を発症される方がいますが、これは村上春樹氏の表現力がずば抜けており、その記述を読むことで読者に明快なイメージが共有されて、時に読者を動かしてしまう(ピナ・コラーダ飲んじゃう)ことがあるのだと思う。
この「ストーリーより表現」が本書で一番僕に刺さった話であり、ある種ストーリーのパターンは数少ないので、いかに表現で勝負するかが大事だということを学びました。
クリエイティブとは脳の中のヴィジョンを形にすること
よく「クリエイティブ、クリエイティブ」と言いますが、クリエイティブってなんなんでしょう。「創造」とか「創造物」ともいえるのでしょうが、本書での川上さんの定義は「脳の中のヴィジョンを形にすること」であり、非常にスッキリしました。
自分で振り返ってみても、脳の中でヴィジョンを明確に描けていた時は、当たったコンテンツが多かった気がします。こういった記事であっても、「絵」を描ければ「この記事はけっこう伸びるんじゃないか」という手応えを感じることがあります。具体的には「こういう表現(絵)を入れれば、こういう風に人が反応し、結果的にけっこう読まれるだろう」という感じ。
「クリエイティブとは脳の中のヴィジョンを形にすること」をもう少し分解すると「脳の中にヴィジョンを持つ」と「そのヴィジョンを形にする」の掛け算です。前者の「脳の中にヴィジョンを持つ」の方が圧倒的に難しく、僕はよく「ヴィジョンの枯渇」に苦しみます。書く記事ネタがないというのはまさにそれです。
本書には「クリエイティブの本質はパッチワーク」という話もあり、「ヴィジョン」は決してゼロベースからできるオリジナルではなく、何かの足し算や掛け算だったりすることがほとんどです。「編集者は雑食であるべき」という話をたまに耳にしますが、インプット量の多さがそのままクリエイティブの引き出しに繋がるからなのでしょう。
そういった意味においては、僕はインプット量が圧倒的に足りていない。よくこのインプット量でアウトプットを捻り出しているなという感じで、よくスランプに陥るけど、そういう時はあまり好きではないインプットに時間を割いたりする。
僕が本書を読んで感じたのはそんなところです。「表現」へのこだわりをもっと意識したいと思いました。
イケダハヤトさんの書評では「ブログは文体が表現といえる。内容に大した差別化はない」という話も一理あるなと。ただ、僕は他の誰でも書ける同じストーリー(どこどこがサービスをリリースした)を書くことに興味がなく、極力人が扱わない切り口のストーリーを提供する存在でいたいし(ゆえに、パターンをずらしてずらしてコンテンツフォーマットを開発したい)「あれは梅木にしか書けない」は模倣困難性が高いとい点において、最高の褒め言葉であるとすら思っている。
表現の重要度が高いことは理解しつつも、物語を諦めてはいけないなあとも思いました。